~≪史跡琵琶湖疎水の「水路閣」≫~
こんにちは!(^O^)/
「春」ですね~~。
日ごとに桜前線が
どんどん上がっているようです。
それは嬉しいけど、
数日前の写真を早くアップせねば~と
焦っております。(*_*;
史跡琵琶湖疎水の
~≪水路閣≫~
是非是非!一度は観に来たい!
と思っていた所です。
重層なレンガ造りのアーチ型の橋は
琵琶湖疎水の水路橋です。
この見事なデザインのレンガ造り!
古びたアンティーク煉瓦の色に
レトロな香りも漂います。
価値ある近代の文化遺産ですね。
都が東京に遷された事で、
京都の町の人口や産業が衰退をし始めていた事を
何とかしたいと考えた第3代目知事・北垣国道は、
琵琶湖から京都への運輸水路の開発を提案します。
それが完成すれば、舟運の発達はもちろんの事、
都市部の飲料水も確保、家屋密集地の防火や衛生管理にも役立ち、
市民らの協力も得て、明治十八年(1885年)に工事が着工され、
困難を極めた工事も、着工から五年近く経った明治二十三年4月7日、
就労者400万人、125万円という膨大な費用をかけて
大津の琵琶湖取水地点から鴨川落合まで
11.1㎞の疏水が完成したのです。
やがて、明治二十七年(1894年)には、
やがて、明治二十七年(1894年)には、
疏水が伏見にまで延長され、
琵琶湖と淀川が結ばれるに至って、
近江と大阪が直結し、物資や旅人の往来で、
大変な賑わいを記録しました。
しかし大正時代に入って、京津電車や京阪電車が開通し、
大正十年には国鉄の山科トンネルの開通とともに
現在の山科駅が開設されたため、
人の足としての疏水の役目は終わりました。
疏水の水は、現在でも水道用水など現役で活躍中で、
日本の重要な工事を外国人の設計監督に頼っていた明治の初め頃に、
日本人のみの手で行われた誇れる一大事業です。
この大きなアーチ橋の上を流れている
琵琶湖疎水
さらさらと水の流れる音がします。
清々しいですね。
何度見ても圧倒される
堂々たる景色です。
南禅寺は桜の名所
やっぱり時期を外したのは悔しかったけど、
「水路閣」を見られて満足でした。
南禅寺はまたの機会に
ゆっくり観に来たいです。
(●^o^●)